AS, far as I know

PDD(ASD)の成人当事者(ヌルいオタク)が、固有の認知や思考について説明を試みるブログ

じいちゃん考

母方の祖父の話である。

長いこと農業を営んでいる祖父は、近所に住んでいた。私の家の隣も祖父の畑だったので、たびたび仕事に来ては我が家で十時と三時のおやつをとっていた。祖母は人間より犬猫や草花の方が気が合うんじゃないかという人だったが、祖父は反対に犬が大嫌いで野良犬とみるとおっ飛ばしていた。しかし我が家のお茶コーナーにはいつも犬が繋がれていて、それを特にいじめたりはせずかわいがりもせず、時々おっ飛ばす振りをして笑っていた。あれは実は犬をからかっていたのではなく孫をからかっていたのではないかと今になって疑いを抱いている。

祖母は体が弱く、ずいぶん伏せってから亡くなった。難しい人ではあったが何をすれば喜ぶかということははっきりしていたので、その犬を連れて散歩がてらのお見舞いに行ったりしていた。しかし、祖父の喜ぶことはよくわからなかった。

祖父自身が自分の話をほとんどしなかった、というのもある。娘であるうちの母が中年になって唐突に夜勤のある職に就いた時、「夜勤は大変だろう。俺も造幣局で夜勤してたからな」と言い出して、初めて聞いた母が大いに驚いた。よくよく聞けば生まれ育った大阪で、兵役逃れにアルバイトをしていたそうだ。大阪の造幣局って言ったら桜の名所、今のトレンドで言えば五代さまではないか。びっくりぽんや。
それを当の祖父の葬儀の時にネタにしたら、大阪から駆けつけてくれた大叔父が「せや、兄貴は造幣局でバイトしてたんや。帰りにいつもきんつば土産に買うて来てくれてな」などと振り返っていた。この大叔父はその年齢にしても古めかしい名前を付けられていてそれをずっと不満に思っていたそうなのだが、それを祖父が遠く離れた関東で家を持ってから遊びに来てぼやいたところ、にやりと笑って「それは俺が付けたんだ」と言い出したのがやはり我が祖父である。いわく、両親が年老いてから生まれたいわゆる「恥かきっ子」だったため、届けを出すのを恥ずかしがって息子に行かせたらしい。「道々考えてったんだが立派な人物って言ったら校長先生しか知らなくてな、その名前を貰った」とのこと。

そういえば、祖父は母のことをいつも案じていた。
夜勤のエピソードもそうだが、私が運転免許を取ってからだから亡くなる数年前、まだ元気に働いていた頃に野菜を分けてくれながら「お母さんに心配掛けるなよ」と言われたことがある。そうか母に心配を掛けるような孫であることをじいちゃん本人には懸念されているのか、少し進歩しても「これでお母さんが心配しないで済む」と思ってくれるかなあ、などとぼんやりと思っていた。それは私が自閉症である故の「言葉を辞書的な意味でだけ受け取る」解釈だったと今ならわかる。
お母さん、という表現には仮託させた部分があって、何割かは祖父自身が直接私の身の振り方を心配していたのだろう。母の実家にとっては愛嬌のある受け答えができ、祖父や祖母とのほほえましいエピソードがある弟ばかりかわいいのだろうと考えていたのもあるが、近所のスーパーに行った帰りにアイスを買ってきてくれた祖父が、弟にだけ食べさせてやろうという気持ちだったとは考えづらい。

こんなこともあった。小学校四年生ぐらいの頃だと思うが、父の実家に車で向かう途中、「おじいちゃんが、桜花は作家になればいいって言ってたよ」と言い出した。文字通り自慢にならないので自慢ではないが、当時は学校の成績だけはよく、先は医者とか検事だとか言われていた頃だったのでとても鮮明に覚えている。しかし状況のせいでずっとその「おじいちゃん」を父方だと勘違いしていた。
最近になって父方の祖父が言うようなことではないと気付き、母に確かめたところ、あっさりと「そうだよ。あんたが動かないから、机にいていい仕事だろうって」
……思ったよりトホホな理由だったが、私に初めてクリエイティブな仕事を見立てたのは祖父であったらしい。

じいちゃんが私のことを実際どう思っていたのかは定かではない。人一倍動く、おやつのときにも先にさっと席を立ち、遊びに行っても庭や視界の隅をさっさか動いている人だったから、孫が「動かない」ことを気にしていたのかも知れない、が、そこで出てきた表現が作家だというのには否定の意図はあまりないようには感じられまいか。
名付けと言われて校長先生の名前が出てくる祖父は優等生でもあったらしく、教育勅語を暗唱させられていた、今もできるらしいと聞いて、母伝手に「今度聞かせて」と頼んだら、書いて寄越してくれた。御名御璽と書いてあってうわ十二国記で読んだ単語じゃんと思ったが意図がすれ違っている。お互いにちょっとコレジャナイ感は抱いていたかも知れない。
郷土の歴史を調べていた時は、昭和の大合併でうちの村がどっちとくっつくか、世話になっている人と妻の実家への義理の板挟みになっていたという手記を寄越してくれた。表現は家内だったかもしれないが、いずれにせよ祖父が祖母を文字で呼んでいるのを初めて読んで新鮮だった。あれらの書き付けはどうしたっけ。

祖父の形見と言えるものを私は持っていない。そういうのにこだわる家族でもないので。ただ、
関西の友人が私を評して言ったことがある。
「桜花さんはこっちで言うところの『いらち』だねぇ」
意味を調べてみると、そこに私が覚えている、視界の端をせわしなく移動する祖父の姿があった。