AS, far as I know

PDD(ASD)の成人当事者(ヌルいオタク)が、固有の認知や思考について説明を試みるブログ

デザインあ「考えていないわけではない」

NHKに「デザインあ」という番組がある。

コーネリアスの不思議な音楽に乗せて、ピクトグラムや椅子などの人が考えたデザイン、果物などの自然が作ったデザイン、時には発泡スチロールをつぶつぶに分解してみたりと「人間の身の回りにあるものがなんなのか」ということをものの「形」や「見た目」から解剖する番組だ。

私は毎朝「0655」からEテレを付けっぱなしにしているのだが、昨年度からだったか、7時台の「はなかっぱ」の後にこれの5分版が流れるようになった。
朝っぱらから不安になる音楽だなあ(人曰く『コーネリアスからしょうがないよね』)と、半分寝ながら眺めているのだが、先日、そんな眠気も吹っ飛ぶコーナーに出くわした。

考えていない」というのがそれである。

画面に登場した人がスニーカーを履こうという場面だ。大写しにされる左足が、靴を履いて歩き始めるまでのシーンがスローモーションにされ、三宅民夫アナの声がそれを一つ一つ実況していく。

このページでは「くつ #63」として掲載されている一連の画像だ。
以下に、書き起こしをされたブログを発見したので引用させていただこう。

 さぁ、足がスニーカーにアプローチします。穴の中を目指し、
 スピードを抑えながら慎重に向かっていきます。うん、うまく、
 蹴飛ばさずに中に入れたようです。さぁ、続いて? サポート
 役の、手が降りてきました。人差し指と中指で靴のかかと部分
 を外側へぐいっと引っ張ります。そのお陰でできたスペースに
 すかさず、足が入り込みます。スポッ、と、かかとが入りまし
 た。さぁ、ここまでくれば、あと少しです。さらに靴の中に足
 を入れ込むため、ダメ押しのつま先とんとん。1回、2回。決ま
 りました。みごと、スニーカー装着、完了です。
引用元:「デザインあ」の新コーナー2つはどちらも傑作:由良理人のその日暮らし日記



ナレーションが終わると黒い画面に白文字でタイトルが表示され、三宅アナが読み上げる。
「考えていない」。
もう釘付けである。


……考えている。
厳然しっかりと、考えている。


言ってしまえば、サポート役の手が靴のかかとを引っ張るとき、うまくその指が中に入るよう足の指の付け根の関節を強く曲げてかかとを持ち上げるようにすることぐらいまで考えている。
つま先とんとんに前後して、足をあたかも犬のブルブルのように揺すってポジションを安定させるところまで意識的にやっている。

その瞬間去来した感情は様々すぎるが、敢えて言うなら、自分が発達障害だと認識したときの衝撃をスケールダウンしたものに近かった。

反発。考えてるよ。
納得。ああ、だからみんな私よりちゃっちゃっと靴を履けるんだな。
絶望。私は靴を履く程度のことも人と同じようにはできないのか。
徒労感、悔しさ、妬み。なぜ靴を履く程度のことで人より面倒を強いられているのだ。

しかし一番大きかったのは、『その事実を面白がる心』かもしれない。


デザインあ」が、靴を履く行動を健常者が「考えていない」と可視化したことによって、同時に、ここに「考えている人がいる」ことも可視化されたのだ。
それは私にとっては大きな発見だったし、他の「考えていない」人、そして私のように「考えていた」人の双方にとっても発見たり得る。
私はそれを言葉にして伝えることができる。


三宅アナは番組のブログでこう語っている。

 さらに不思議なのは、私たちは一体いつ、このような神秘の動作の数々を身につけたのか?ということです。
 思案するうち、3歳になる孫の様子を見て、ハタと気づきました。転けながらのヨチヨチ歩き。口や前掛けを汚しながらの食事。大人を真似つつ身につけてゆく言葉・・・
 「考えていない」動作の一つ一つは、遙か幼き頃、こうやって身につけてきたのだと、教えられたのです。父、母、祖父、祖母・・忘却の彼方にあった家族との時間を思い、「考えていない」個々の所作が、かけがえないものと感じられるようになりました。
私は今、還暦も過ぎ62歳。足腰の動きも若い頃のようにはゆかなくなり、これまで考えずに出来ていた動きを、徐々に意識せざるをえなくなっています。
引用元:『考えていない』を考える|三宅民夫|あブログ



観察、
試行錯誤のアプローチ、
構造化、
あるいは生得的なものか。
どこに問題、もしくは差異があったのかは分からない。
あるいはこういった行動を「考えない」でできないことには、家族や周囲の人々とのふれあいが薄くなりがちなことも関連しているのかもしれない。

しかし、私たちが「考えずにできない」ことは、損失や喪失ではない気もするのだ。
そして同様に、もしすべての人間が将来的に「意識」しながらしなければならないとしたら、その一まとめに「老化」と言われる現象もそうだろう。
たとえばロボットを設計・プログラムするとき、誰かを介助するときに役立つ視点でもあるし、そうでなくても気づいて考えることは豊かなことだと私は思う。
なんせブログのネタにもなる。


……などと言っていたら、今度は同じコーナーで「コップ」が紹介されているのである。
以下に先ほどと同じブログの書き起こしから一部引用させていただこう。

 両目はしっかりと水の動きを捉えています。ゆっくりと
 コップを傾けていきます。口は? まだ開かない。開か
 ない。ここで開きました。そのまま、下唇の上にコップ
 の縁を載せます。そして、唇の両端をキューっとコップ
 にくっつけることで、水が端から洩れるのを防ぎます。
 唇の形をキープしたままで、顎を上げていきます。自然
 と、水は口の中へと流れていきます。
引用元:「デザインあ(67)」の「考えていない」は「水を飲む」:由良理人のその日暮らし日記



「考えてなかった」。
液体は見てなかったし、口の開くタイミングは遅かったし、唇の上に縁は載ってなかったし、
決定的なことには、顎は、下げてた。

思わず朝っぱらからおかんに「顎上げるのか!!」とメールしてしまったら、犬の散歩がてら電話が掛かってきて「あんたそれができなかったからこぼしてたのね」と言われ二人で感慨に浸った。というのは、私がものをこぼさずに飲めないことはそれはもう長い間我が家では懸案事項だったのである。
ある時は「吸えばこぼさないんだよ!」って突っ込まれるし。「吸わないんだよ!」とも怒られるし。
吸引力の問題ではなかったらしい。


「考えている」だけではなく「考えていないことはできない」ことまでもが証明されてしまった。
しかしまあ、可視化・言語化されたことでメカニズムは理解できた。
Eテレ特別支援教育番組として「あいさつ」とか「集中する」とかと同時に「体の使い方」を紹介しているみたいだが、これだけで一年シリーズ組んでもいいんじゃないだろうか……。

そんなわけで、私はここしばらく、顎を上げるトレーニングをしている。なにしろ三十年以上意識していなかった筋肉なのでまだものすごく不自然なのだが。
これから会得できるかは分からないが、かつて私が雑談に参加できるようになった時と同じように、私自身がやりたいと感じている限り、挑戦する価値はあるのではないだろうか。


……くびいてえ。

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