AS, far as I know ~"私"とは私の識る限りの"世界"のことである。

PDD(ASD)の成人当事者(ヌルいオタク)が、固有の認知や思考について説明を試みるブログ

出題者(彼)もまた我々(己)を知りたいのだ──自閉症流、作文の書き方

国語のテストで「作者の気持ちを答えよ」というのは下手な設問だ、とよく聞く。
古くは雑誌の読書投稿欄でネタにされていたような記憶があるし、インターネットが始まってからは様々なコミュニティで目にしてきた。もちろん、私を含めた一言居士と大喜利民でできているようなTwitterの皆さんの餌食になっているのは言うまでもない。

概ね、同意である。それを問おう、試験問題にしよう、というのが悪いのではない。問題文が悪いのだ。悪いというか、不正確だ。
ではあの手の問いは、より正確には何を尋ねているのだろうか。試験問題というものが、それ自体人間の手によって作られている、ということから推理すればわかる。
「出題者が、どのように作者の言いたいことを受け取ったか」を聞きたいのだ。


私にそれを教えてくれたのは、中学時代の塾の先生方だった。
「静けさ」がなぜ「静かさ」ではないのか。一つの短歌に出てくる、「青」と「あを」の違いは何なのか。教わった先生方はそれぞれみっちり我々に仕込もうとしてくれた。
それで私は、人が言葉を選ぶときには、必ず何らかの意図、そして動機がある、と知った。のちに、大学で社会言語学を受講したきっかけでもある。

その先生方いわく、テストの時は、読まされる長文以上に、設問に「出題者の意図」が込められている、とのことだった。
一度国語から離れて、数学の試験について考えてみよう。最初の大問は徹頭徹尾単純な計算問題だったりするが、後ろの方はいわゆる「文章題」や「図形問題」など、より複雑な設問の組み合わせになってくる。そしてその組み合わせの中で、最初に出した簡単な問いの答えが、すぐ次の、より難しい問いの材料になっていることがあるだろう。最初の回答でつまずくと、後ろの、より多い点が得られる問題の式を立てるのに失敗したりもする。

国語における長文問題も、そのように構成されている。
大問の最初の単純な問いは、その後ろの問題の手がかりだ。あたかも題材となる文を流れとして読むように、設問自体もひとつの大きなストーリーや論説のように読むことができる。
そして、出題者が選んだ語句や傍線を引いた箇所は、作者自身ではなく、出題者その人が重要だと考えた場所なのだ。

この考え方を知ったことで、「出題者の意図」つまり正答にたどり着くことが楽になった。
中学入学時の私のテストでは、論説文に比べて物語文の点数が散々だったのだが、卒業時にはむしろ物語文の方が得意なジャンルに化けていた*1


そして私はその考え方を、日常会話、すなわち現実社会にも応用できることに気がついた。

たとえば、日本語の一人称だ。少し考えてみるだけでも、僕、俺、わたし、うちら、先生、お姉ちゃん、など数多の種類が挙げられる。そして、「僕」と聞いたときと「わたし」、「うちら」と聞いたときと「お姉ちゃん」と聞いたときにはそれぞれ話し手のイメージに違いがないだろうか。
もしくは、同じ一人の人がある時は「俺」、あるときは「先生」と称していたとする。その人はその使い分けによって、ちょっと違う顔を見せていたりしないだろうか。
この、「数々の一人称のうちどれを選ぶか」ということは、つまり、その人が「どう見られたいか」ということと不可分なのだ。
それは語尾やあいさつ、若者言葉や方言の選び方にも現れる*2

──会話とは、それ自体がすなわち「長い自己紹介」だった。

それを知ると、雑談の場でアガったりわけがわからなくなってしまうことが徐々に減ってきた。というのも、もともと物語は*3好きだったのだ、他人の自己紹介、つまり自分の知らない物語がそこにあると気づけば、だいたい何でも面白かったのである。

そして場数を踏む間にだんだん、相手にも「自分の物語」を聞いてもらえる話の配分をつかんできた。頭の中にはアレキサンドリア図書館とかこれまで見聞きした会話のデータベースに似たものがあるので、それを読み出しながら試行錯誤を続けた結果だった*4
分析対象は、役割語などの言葉尻から、より複雑な感情を表す語に移行していった。
また、自閉者がどうしても読めない「場の空気」、言い換えれば「その場がどういうトピックに支配されているのか」も推理できるようになる。空気は読めないままなのだが*5、パターンとも言える何種類かの決まった手がかりを発見したのだ。毎回の会話ではその手がかりに目をこらし、それが捕まえられればあとは自分の感情語、つまり感想をうまくのせるだけだ。

実を言うと、私は今でも場の空気は読めないし、感情を充分に共有することも、徹頭徹尾「自然に」会話をやりとげることもできない。しかし、初対面の人に「テンション高くて少し変わってる人だね」と思われるレベルまでには神経的な健常を装うことができる*6


話を国語に戻そう。「トピックの推理」、「己の話を聞いて貰うためのデザイン」、この二つを手に入れると格段に得意になること。それは、作文である。
あらゆる課題としての作文は、宿題だろうが受験の小論文だろうが、出題する大人が題材やテーマを提示した時点で、同時に「こういうネタに高得点をやろう」というパターンも自ずと明らかなのだ。

「自分の体験を元に論じなさい」であれば、書き手固有の体験を求められていると思っていい。そこで、家族の話や習い事など、同じ課題に取り組む生徒の全員が体験しているわけではないことを書けばよい。
教訓的、風刺的な題材なら、それを目にしたときつい何かを考えるだろう。それを増幅して日頃から考えている疑問なんかを、あたかも今深く考えたかのように論じる。「社会について書け」と言われれば、今度は逆に日頃の自分の趣味や関心をオープンにして、その周囲で見聞きしたことに基づいた、つまり自分に紐付けられた、具体的で現実的な意見を述べればいい。
これらは唯一絶対の正解ではないが、少なくとも私はこの手で受験を突破してしまった。


重要なのはつまり、「勝利条件を設定すること」と、「自分の武器で戦うこと」だ。

読書感想文であれば、勝利条件は「原稿用紙を埋めること」かもしれないし「入賞を目指し、大人の選びそうな文を書く」かもしれない。「家族が読んで、喜んでくれる作文」でもいい。
自分の武器とは、「本を読みながら突っ込んだこと」に加えて「読みながら思い出したリアルの自分」でだいたいいける。

彼を知り己を知れば百戦殆からず。
そもそも彼たる「出題者」も、「解答者」である己*7を知るために、問題文や課題を繰り出してきているのだ。

そのうち、人それぞれに合う武器や合わない武器、倒せない敵や楽勝できる敵が見えてくるだろう。その頃には私が挙げた例よりもっといい倒し方も見つかっているに違いない。武器を磨いて倒し方を最適化し、より楽に勝てるようにしていくのも、楽勝できる敵の戦いに甘んじることなくより強い敵を求めるのも自由だ。


いつか、原稿用紙が一文字も埋められずに残されていた子供でも、こんな長文を書けるようになると、これはそんな話である。

*1:なにしろ、解き方を知る前は当てずっぽうだったので

*2:「だよね」「ですよね」。「こんにちはー」「うっす」、「ありえない」「ねむみ」、「まったり」「バリ」……

*3:問題として出されたときの成績こそ悪かったが

*4:実にディープラーニングである

*5:未だに

*6:801ちゃんのイラストでは、人族女子の着ぐるみの中に物理的に異形が潜んでいるだろう。精神的には、まさにあんな状態だ

*7:こちら