AS, far as I know

PDD(ASD)の成人当事者(ヌルいオタク)が、固有の認知や思考について説明を試みるブログ

愛では足りない。──虐待被害者による、対策への考察

 虐待をする親に愛情がないわけではない。それは、私が30と数年生きて知った、揺るぎない事実の一つである。
 愛は彼らを救うには足りない。むしろ、彼らを追い詰めるものこそが、時に愛であった。

 

 虐待という言葉を目にしたとき、多くの人は、異常な人間による考えられない仕打ちを想像するのではないだろうか。しかし当事者の一方として、十数年にわたりその実態を目の当たりにした結果、そうではないと私は考えている。
 ネットで見る「虐待していないか不安」「巡り合わせが悪ければ、もしかしたら虐待していた」と言う親御さんの心配は正しく、また、その不安を抱いて表に出せるかどうかが、最悪の状況を回避するためのもっとも重要な分かれ道だったと思う。

 あれは『異常な人の仕打ち』ではなく『普通の人の異常な状態、不運、不幸』だ。
 結局虐待とは、自己肯定感が低いだけの、認知の歪んだ『普通の親』による子供の濫用なのだ。

 

 私自身、親や周囲の大人から、性被害やネグレクトに類するもの以外のあらゆる虐待を受けていたし、今でも帰省すれば日常的に暴言を受ける。
 それでも日頃は、虐待について特にコメントすることを控えている。理由はいくつかあるのだが、大体は読み手に誤解を与えかねないと感じるためだ。
 まず私自身や父、おそらくは祖母の発達障害により、一般的な家庭での虐待と我が家のものは少々カラーが異なる。
 また、一番懸念しているのは、「母と私の間に限り、ここ数年で虐待を克服したと言えるから」である。
 恐れているのは、『克服した』立場、言い換えれば『正しい立場』でのコメントと受け取られることだ。

 私は両親が私を虐待した・している機序をおそらくほぼ完全に理解しているが、そのことを取って他の被虐待者に両親の都合を理解しろ、と言うつもりはない。
 赦せ、なんてもってのほかだ。
 理解することと、共感したり、赦すことは違う。私だって彼らの行動を赦しているわけではないし、自分が同じ立場に置かれたとしても……否、そもそもその立場に至らないよう全力を尽くすと思う。
 私は今でも「自分の想定通りに物事が動かないと暴れたり当たり散らすイキモノが子を“持つ”べきではない」と思っているし、ただその一点をもって、他の部分では同情すべき同族でもある父を恨んでいる。

 しかし、このブログにあるように、父や母を興味深いと観察しているのも事実だ。
 これらの感覚は私の中で矛盾なく並存するものであり、つまり、自分の中にさえ複数の見方があるのに、その中での一つを取り出して『正しい』などと思いようがないし、ましてや、同じような被害に遭った方の感じ方をどうこう言えるわけがない。
 感じ方は人それぞれなのだ。被害に遭ったことのない、親子の愛をただ信じる方にはそれを念頭に置いてもらいたいと思っている。
 その上で、以下に体験を語りたい。

 

「お母さんもずっと愛情なんて感じられなかったけど、桜花を産んだときに初めてこみ上げてくるものがあって、これが愛情なんだ、って」
 私が人の感情、特に愛情を感知することができない、と言ったときの、母の言葉だ。

 母は代々虐待が繰り返される一族に生まれ、子供の頃は核家族の中のピエロだった。祖母の癇癪により空気が悪くなりそうになると、おどけて家族の注意を引くのだ。
 今に至るまで、自己評価が極端に低い。母にとって、中高の友達は皆個性的だったり努力家だったり素晴らしい人だった、という話だが、その中にいて自分だけが怠け者の凡人だった、と言ってはばからない。私から見れば、サザエさんを理数系にしたみたいな人だから、おそらく日常的に一番個性が強かったのは母ではないかと疑っているのだが。

 人に信頼を寄せられるまで、自分から一線を越えて近づくこともあまりしない。期待と落胆の振れ幅が広く、少しでも塩対応をされると全部嫌になってしまうのは、結局自分自身に基準、軸がないからではないかとこっそりにらんでいる。
 そんな母は、両親の不仲から、決して恋愛結婚はするまい、と心に決めていた。しかし時代は、若い女に非婚を許さない世の中である。
 というわけで若き日、つれなくしても逃げないから大事にしてくれそうだ、と選んだのが私の父だ。……濡れ落ち葉、と称される彼は、単に空気が読めないだけの自閉症だった。
 ピエロはカサンドラになった。

 その神経質さや周囲を顧みない振る舞いには、新婚旅行で既に後悔を始めたという。
 結局、結婚後十年の間に、暴言に始まり、身体的暴力、労働の禁止、交友の制限等々、モラルハラスメントに該当するようなものは一通り受けることになった。
 しかし、最大の悲劇はそこではなかった。
 若い女は結婚をしなければならず、結婚をしたからには出産をしなければならない。
 正直、ストレスだけをとっても妊娠できるような環境ではなかったと思う(とは本人も言っている)。それでも長年不妊治療に取り組み、諦めた頃出産にこぎ着けた。

……産まれた子は、視線を合わせて笑うということをしなかった。
 母子手帳の記録に、既に困惑が見える。ただ、喋り始めれば語彙も多かったので、どこに相談しても異常はない、と言われた。
 だが、子が集団生活に飛び込む年齢になると、「できない」「不真面目」「しつけられていない」というプレッシャーを、子ではなく母が一身に受けることになる。

 

 母は物事を道理で考えるのが得意な人だ。時々正義感の方向に突っ走ることがあるのは私に遺伝している通りだが、それでも長い目で見てみんなが得をできるような、バランス感覚に優れている。ケアマネージャーを始めたときなんか、天職だろうと思ったものだ。
 だが、自分のこと、自分の延長である子のことを考える時だけ、自分が悪い、自分が何とかしなければならない、不手際は隠さなければならないと、ひたすら思い詰める。
 夫や子の異常さを、打ち明けた周囲に否定されたわけではなく、この自縄自縛によって母はカサンドラに、次いで虐待者になった。

 母にとって、さらには私にも幸いだったのは、おそらく二人ともに共通するADHD的気質によって、同じ状態を維持することが苦手だったことだ。
「我慢できなくなった」母が、エンジンの掛かった車の前に飛び出して止めようとする父の異常さを近所に知られることもかまわず、振り切って仕事に出るようになってから家は変わった。

 子供は10歳になっていた。

 それまでの数年、私は母に理不尽な叱責、時に暴力を受けていた。
 またその後も、思春期を迎えて決定的に社会との齟齬を起こした私が、今度は母、そして父のストレスになり、それまでに比べれば理不尽さの度合いは減ったものの、母が肋骨を折るまでにいたる(もともと折れやすいんだ……下手人が言うのもどうかと思うが)小競り合いが数年にわたって継続することになる。
 結局、私たちがそれを克服したのは、ごく最近になってである。自分を発達障害であり、アダルトサバイバーであると判じ、ひたすら分析と学習を繰り返した私の取り組みと、私に指摘される認知のゆがみを時に反発しながら認めていった母自身の努力によってのことだ。

 

 その矯正ともリハビリとも言える道の中で、私は何度も過去のことをほじくり返した。自閉症なので、たかだか二十数年前のトラウマなんて、先月起こったレベルの事件として覚えている。
 だが母は「正常に」近づくためにか、いつの間にかそれら、特に初めの数年の理不尽な振る舞いは忘れてしまったようだ。私が恨み言を言えば、自分がそんなことをしたとは信じられない、と今でも言う。
 でもお前が言うなら事実なんでしょう、すべて私が悪い、親失格だ、とも。

 私は謝罪してほしくてそれを言うわけではない。
 思春期に根を張り、今に至る私のセルフネグレクトの原因としてそれを指摘するのだ。

 私の、自分を自分としてではなく、上空から俯瞰するような視点で、いっそ他人事として考える特性はこのリハビリの時期にプラスに働いていると思う。
 これは母にも若干ある習性だが、ただ、母は失敗の話になると視点が降りてきてしまう。

 だが、私のセルフネグレクトが仮に母のせいだとするなら、母がまるで人生や尊厳を投げ捨てるように生家や結婚において自分を使い潰したのは誰のせいなのか。
 私の身に波及したのは、その単なる結果だったのではないか。
 特性に関してだってそうだ。私に父の自閉が遺伝したとするなら、それはいったいどこから来たというのか。

 

 発達障害が異常だというなら、私と父は生来異常なのかもしれない。だが母はそうではない。少なくとも診断が降りるレベルではない。
 それでも、あとから異常な状態になった。
 母は『普通の人』だった。希有な幸運と本人、被害者たる私の双方の努力の結果、彼女の『異常な状態』は終わりを迎え、今では私と母の間に虐待と呼べるものはほぼ完全にぬぐい去られた、と思う。
 でもそれは、賭けだし、子供に負わせてはならない努力だ。

 

 親子の絆、愛や情と呼ばれるものは、母を追いつめる理由にはなったが、なんの助けにもならなかった。
 今でも、「親失格だ」と何か評価の基準になるような絆や愛情の示し方があるなら、そんなもの捨ててしまえと私は思っている。

 私を救ったのは教育であり、理屈だ。正しいものを追求しようとする姿勢と、物事を学び、見極めようとする意欲だ。
 それらは確かに、親としての責任感で彼らが与えてくれたものが基となっていて、そのこと自体には感謝している。だが、それらは他人には与えることのできないものだろうか。

 親子の愛や絆が美しく、人生においてかけがえのないものだと信じていられる人は幸福である。私はその点において不幸だったし、不運だ。だが、そういったものがなくとも子は育つし、虐待は止めることができる。
 なぜなら私は、生来の異常によって愛情を認識できないのだから。

 

 ここまで、自己肯定感が低く、認知の歪んだ『普通の親』による子供の濫用についての一例を述べてきた。
 当事者として、また観察者としての私の意見はこうだ。

 虐待の起こってしまった家庭に『親子の愛』や『絆』の保全を考えて子を置き去りにすることは不適切である。
 愛や絆は虐待の原因になることこそあれ、起きてしまった虐待を止める力を持たない。
 それを止めるのは治療、ひいては教育の力だ。

 愛情という期待や、親子のあるべき姿といったストーリーをいったん横に置いて、濫用、依存の対象である子から引き離し、親に治療を施すことが必要なのではないか。これはアルコール依存症や性依存症と同じ考え・対策が必要な話だ。
 性依存症の彼氏がかわいそうだから体を差し出すという女の子がいたら、皆必死で止めるのではないか。
 虐待に依存する親の子も、同じように守ってやってほしい。

 

 最後に、私が16になった頃の話を書く。
 いつも通り私の全存在を否定している父の横で、母がまな板に向かいながら、生まれて初めて私に「そんなことないよ、お母さんは桜花が生まれてきてくれてよかったと思ってるよ」と言った。

……正直、母に対してあれほど腹の立ったことはなかった。
 そこに愛情があるなら、なぜこの父の元に私を設けたのか。なぜ私を抱えてこの家から逃げないのか。
 16年にわたって、私を否定するがままにさせ、時にはそれに荷担しているのは何故なのか。
 後のリハビリ期に「ドッキリかと思った」という形で文句を表明したが、「全部バカバカしくなった」、というのがその時の気持ちだった。
 そんな風に、暴力や過干渉の後に免罪符のように投げ出される言葉が愛だというなら、私はそんなもの要らなかった。

 

 しかし今の私は、自分に愛情を感じ取る機能がないことを知っている。
 もしかしたら一歳の私に微笑みかけて落胆を覚えた母は、ずっと何らかの愛情を言葉に寄らず表現し続けていたのかもしれない。
 
「お母さんもずっと愛情なんて感じられなかったけど、桜花を産んだときに初めてこみ上げてくるものがあって、これが愛情なんだ、って」
 この言葉は実のところ、『私は愛情を感じられないのだが、お母さんはどうなのか』と聞いたからこそ得られた言葉である。

 もしかしたら私も、子を持てば実感に至るのかもしれない。それとも、母の言っていることがわからないまま一生を終えるのかもしれない。
 どちらでもいいと、今は思っている。