AS, far as I know

PDD(ASD)の成人当事者(ヌルいオタク)が、固有の認知や思考について説明を試みるブログ

サクラサク

このご時世にブログを開くことにした。


Twitteras_wwwitは本来はいわゆる裏アカ、愚痴アカと呼ばれているものだ。
私がTwitterを始めたのはpixiv投稿企画に触れたからだが、そちらで作った「本アカ」のタイムラインは、作品を短いスパンで発表したり交流のために他のクリエイターと会話して情報や妄想の共有をする、私に言わせればじゅうぶんリア充なツイートが流れていて、混じろうとする努力は後光にかき消された。
そこで作ったのが裏アカである。

このアカウントにはプロフィールに紐付けられたブログがある。私の認識ではそこは穴である。
最初の方の記事にもあるが、家計(一家レベルで)が苦しいとか受給している年金のための診断書がどうこうとか、「交流」する相手の前では言えたものではない。


もう十年も前の話だ。私の運営する遊び場で、「集中できない人間などいない。努力の問題だ」という発言が流れた。
それに対して直接反論を試みたかどうかは忘却の彼方だが、結局私は「ではもう遊びには参加しません。運営は引き続き行います」と言うに至った。

発達障害のことをご存じない方には二重に引っかかるところだろうが、これは別にストライキや当てつけのためではない。私が遊びに混じることで腹に据えかねる人がいるのならば、消えるのが「当然の筋」だと思ったのだ。
私がその行動を取ることで居心地が悪く感じる人が出る程度のことはその時でも予測はできた。だが長い目で見た時、集中できないことについて我慢していただく不利益の方がより大きいであろうと考えたのである。

結局、親しい立場の人間の仲裁を挟み、当人が「付き合いのある医師に、そういうのは本人が一番わかっているはずだと言われた」と言っていたと聞いたということで手打ちになった。相手がどう納得したかはわからないが、その後も同じ場で遊ぶ機会を持ったような記憶がある。

ところがほんの数ヶ月後、その仲裁を行った人物が私を手ひどく裏切る事件が起こる。彼の言い分はこうだ。
「これ以上病気の女の面倒など見ていられない」

似たようなことは、その後も何度も起こった。


同時に、その遊び場やインターネットを通じて様々な障害者に出会ったり、折からの日記サイトやブログのブームによっていろんな当事者や家族の手記を見たりもした。そして自分が「絡める」ような当事者がほとんどいないことにも気づかされる。

自分に負けず世間に希望を振りまく、明るい頑張り屋さんか、
世の中の歪みを一身に集め、他人と我が身を恨んでいる怨念の塊。

どちらの真似もできない。たとえばアニメと言ったら子供のためのアンパンマンか、苦しい自分を救ってくれる生きるよすがの二択になる。対してこちらはたいへんカジュアルに「あっまたこの声優さん裏切りそうな役やってるわ」とか「うわあ一話目見逃したけど好みのストーリーじゃん私ってほんとバカ」といったようなポジションである。そんな自分がうかつにコメントさしあげるのは恐れ多いではないか。


また、地元では実名で当事者のパネルディスカッションに登壇し、学校や社会ではパイオニア的に支援制度のお世話になってみたりもした。パイオニアなので当然差別や無理解にもさらされる。そして現実方面で顔を合わせた、発達障害を扱う時にいっしょくたにされる他の障害の方との間にも違和感を抱えた。

実名で始めたSNSは、そういった障害の当事者とも友達登録をしている割に、未診断であったため当の本人を含む誰もに健常者の一員だと受け止められていた学生の頃の友人の目が気になって、具体的なことは書けなかった。
そもそも私は実名では何も成し遂げておらず、月給を貰ったこともなく、実名で呼ばれる時に受け取れるものといったら問診や支援の手続きの必要性か自分が人並みでない感覚ぐらいになる。


ネット上のハンドルネームでは、私はそれらの無力感から逃れた人格を構築しようと試みた。しかしこんな発言を目にするのはやはり運営している遊び場でのことである。
「集中できない人は来ないでください」
またか。しかし今回は策を練った。予断を持たれるであろう障害ということばを使わずに、生来の集中力不足の説明を試み、「考慮した上で遊び仲間に入れるかどうか判断をお願いします」と書面を作った。

個人的な見解であるが私は理解というのは「我慢して」と要求することではないと思っている。「こんなだから気にならなければ一緒にいて、気になるならよそ行くからそう言って」というのが私のスタンスだ。

私のこたえのひとつがここにある。配慮してでも同席する魅力があったり、そもそも瑕疵が気にならない場合だけ共にいればよい。だってここは遊び場なんだから。


一方で障害者であること、障害者が場にいることを常に考慮しなければならないケースもある。それがいわゆる社会や政治である。

私がインターネットを始めた頃、不特定多数の見る場で政治の話をしないことはマナーであり、議論を吹っかける人間はそれ以外のことでも何かをやらかす困ったちゃん扱いであった。ところが今はどうだろう。
Twitterなどが一言居士で溢れている現在、知り合いの中にも、長い付き合いである相互フォロワー、つまり私が、障害者であったり介護や公的支援を受けていたりすることを知らずに持論を展開する存在を見かける。人付き合いと主張は分けて考えようとは心がけているし、そもそも主張が私のものと重なっていればよいが、年金受給者はゲームやネットに興じるな、などという主張だと何かを思わずにいることは難しい。

しかし主張に応じてこちらの状況を述べるのでは後出しじゃんけんもいいところだ。それに、これから知り合う方に対してもいちいち「アスペは罪悪感なく人を殺すと思いますか?」とかアンケートを採って回るわけにもいかない。


ただ、同時にちらほら見かけるようになってきたものがある。新しい知見、最新の取り組み、考え方、医療などの情報だ。
自分が内心持つ理屈や仕組みを見直す機会になったのみならず、私が思っているような、主張したいようなことを高いクオリティで流し続けてくれる影響力の高いアカウントもある。
障害を抱えた上で、「今期のアニメ、録画溜めちゃってるわ」なんて言っているアカウントもたくさんある。
私の感性は孤独ではないのかもしれない。

そして月日が経つうちに、ひとつ学んだことがある。知らないから私たち少数派の存在や性質を否定するようなことを言ってしまう人でも、知識があれば理解側に回れることがある。この「理解」とは支援者に回るという意味ではない。棲み分けが可能であるというレベルでだ。

いろんな人物と知り合い、意見を戦わせた相手とも付き合いが続いている場合がある。その逆も。

私は遊び場でも自分が障害者であると開示することを始めた。


後に聞いたことだが、何回目かのタイミングで2chに「あそこの管理人は障害者」と書き込まれたという。しかし、似たようなスレッドで私は「女が管理人だから駄目だな」と評されていたというのも聞いている。

女性がいまだに差別を受ける、弱い立場であることはインターネットを見れば明らかだ。しかし、女に生まれたことが他人に迷惑を掛けているとか、女は遊び場に来るな、といったようなことは……まあ、言われるが。
言われるが、言った者が四方八方から謝罪を要求される世の中になってはいるまいか。
もしそうだとしたら、その先にあるものにも期待はできまいか。


私は普通ではない。
しかし、少なくとも私の中では、まともでないわけではない。
しあわせはじぶんのこころがきめるが、まともさは世間の価値観が決める。


まともの範疇を決めるのは認知、次いで理解であると考えている。ネットで政治の話をする人がいつの間にかそうなったように。

私も変わったかも知れない。
だがより変わったのは私を取り巻く社会である。
それは一人の権力者が変えたわけではない。
であれば、ここらで少し冒険をしてみるのもいいかもしれない。

私の楽しみにも遊びにも、どうしても主観に特性が混じる。切り離そうとして切り離せるものではない。
特に世間に希望は振りまかないが恨むこともせず、大喜利を眺めてニヤニヤし、エロ話に突撃していく自活訓練中のアカウントが2010年代も後半になった今更始めるブログがご覧の通りである。


御用とお急ぎのない方は、どうぞよろしくお付き合いのほどを。